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由 緒

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御祭神 児玉源太郎命

    こだまげんたろうのみこと

御神験 勝利・英知・福運

例大祭 五月二日

 御祭神児玉源太郎命(1852〜1906)は、明治陸軍ならびに政府の中枢として縦横の働きをされた偉人です。卓越した軍略の才と政治手腕をもって知られ、陸軍大臣・陸軍大学校長・文部大臣・内務大臣・台湾総督等、国家の要職を歴任。また教育文化の面でも成城学校第七代校長を務める他、郷里徳山に私費で図書館(児玉文庫)を設立なさる等、前途有為な青少年の育成に尽力されました。

 明治36(1903)年、満州を占拠した大国ロシアが朝鮮半島支配を狙い、我が国は国家の存亡を賭けてロシアと対決せざるを得ない局面を迎えました。開戦当時、ロシアの圧倒的な軍事力の前に、欧米諸国が悉く日本の敗北を予想する中で、世界的な戦術の権威であるドイツの軍人K・W・ヤコブ・メッケルが、「日本には児玉がいる。児玉がいる限り日本陸軍が勝つ」と看破した逸話は有名です。はたして、御祭神は次期首相と目されながら内務大臣の職を辞し、自ら降格して大本営参謀次長となり、開戦時は満州軍総参謀長として出陣。日露戦争全体の戦略立案から海軍との調整、満州での実際の戦闘指揮、戦費調達、欧州におけるロシアへの革命工作、アメリカへの講和依頼と、あらゆる局面において活躍され、見事祖国防衛の主導的役割を果たされました。特に難攻不落と言われた旅順要塞の陥落は、御祭神の直接の指揮により成功した作戦であり、日本の勝利を決定的にした激戦として、「二〇三高地」の名で知られています。

 救国の英雄と讃えられつつ、御祭神は日露戦争ですべてを燃焼されたかの如く、明治39年7月23日、55歳にして急逝されました。三回忌を期し、親友であった杉山茂丸が、御霊をお祀りすべく向島の私邸に社を建立したのが児玉神社の端緒と考えられます。後年、御祭神が江の島の風光を愛でてたびたび訪れた縁から、現在地に遷座されました。十三回忌に当たる大正7(1918)年、公認神社への昇格請願が内務大臣に受理されたのを受けて、奉賛会長の後藤新平を始めとして石塚英蔵(第十三代台湾総督)・小山健三(実業家、大阪財界の重鎮)・柳生一義(第二代台湾銀行頭取)・山本悌次郎(台湾製糖常務取締役支配人)・荒井泰治(台湾商工銀行頭取)の計6名を発起人とし、社格(県社)にふさわしい社殿の新営運動が推進された結果、大正10年7月に主要社殿が建立されるに至りました。施工監督は横沢次郎(台湾総督秘書官)、土地約二千坪は中村豊次郎(初代の児玉神社総代)の寄附でありました。

なお、発起人諸氏醵金として台湾銀行を始め多くの植民地関連企業とその関係者が名を連ね、献燈は満州と台湾関係者で占められています。造営に際しても、御祭神が9年間治政に当たられた台湾より幾多の寄贈を受けており、鳥居、燈籠の寄進にとどまらず、社殿は阿里山の檜を用いた総檜造です。設計は伊東忠太工学博士(寺社建築の第一人者)が担当しており、ゆえに当社社殿は間然する所なき近代神社建築の模範と称えられています。ちなみに、一部の鳥居と燈籠にはご生地徳山の花崗岩が用いられています。

 戦後の混乱期には境内が荒廃の極みに達しましたが、徐々に復興が進められ、平成14年には御生誕150年の記念大祭が盛大に斎行されました。さらに平成18年には帰天100年目の大祭を執り行いましたが、李登輝友の会のご尽力により、李登輝前台湾総統に「児玉神社」の文字を揮毫頂き、扁額にお作りして拝殿に掲げ、御神徳を仰ぎ奉りました。勝利・英知・福運の神として、近年とみに内外の崇敬を頂いております。

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